少しずつ変わっていく祖母
祖母の記憶が少しずつ曖昧になり、日常生活に困難が増える中で、私たちは「今できること」を大切にするようになった。認知症の進行は止められないとしても、その中で祖母が笑顔でいられる瞬間を増やすことが、私たち家族にとっての希望だった。
最初の頃は、祖母が思い出せないことに対して「違うよ」「さっき言ったじゃない」と指摘してしまうことが多かった。けれど、それが祖母を追い詰め、不安を増幅させるだけだと気づいたのは、ある日の出来事がきっかけだった。
その日、祖母は私の名前を忘れたようで、「あなたはどちらさんだっけ?」と聞いてきた。私は一瞬戸惑い、「私よ、孫の○○!」と答えたが、祖母は申し訳なさそうに笑って「ごめんね、最近どうも頭が働かなくて……」と言った。その表情に胸が痛み、それ以降、祖母の言葉に対して「正す」のではなく「寄り添う」姿勢を意識するようになった。
刺繍がつなぐ記憶
祖母は昔から刺繍が得意で、私たち家族にプレゼントしてくれた作品は家中に飾られていた。認知症と診断されてからも、祖母は刺繍を続けていたが、以前のように細かい模様を作ることは難しくなっていた。
「最近、うまくできないのよ」と針を持ちながら呟く祖母に、私は「おばあちゃん、昔の刺繍を見せて!」と提案した。アルバムのようにまとめられた祖母の刺繍作品を一緒に眺めると、祖母は少しずつ昔の話をしてくれた。
「あのときは、あなたが小学校に入学する記念に作ったのよね。」
「この模様は、庭の花壇に咲いていたパンジーを参考にしたのよ。」
祖母の話を聞きながら、私は思った。祖母が今できることに限らず、かつての記憶を共有することもまた、大切な時間になるのだと。その日から、祖母と一緒に刺繍の材料を買いに行ったり、簡単なデザインを考える手伝いをするようになった。祖母の手が進むたびに、「今」の祖母と「昔」の祖母が重なり合うように感じられた。
「その瞬間」を大切にする
認知症の介護生活で気づいたのは、記憶が曖昧になっても、その瞬間の感情は消えないということだった。たとえば、家族みんなで昔の写真を見ながら笑い合う時間や、デイサービスで祖母が工作を楽しむ時間。それらの「今、この瞬間」が祖母にとって、そして私たち家族にとっても、何よりも大切な宝物になっていた。
ある日、祖母と庭で花を植えたときのことだ。祖母はスコップを持ちながら、「昔はもっと大きな花壇だったわね」と懐かしそうに言った。私が「どんな花を育ててたの?」と聞くと、祖母は少し考えた後で、「あら、忘れちゃった。でも、きっと綺麗だったはず」と笑った。その笑顔を見たとき、私は「完璧な記憶」はなくても良いのだと感じた。祖母がその瞬間に幸せを感じてくれることが、何よりも大切だった。
家族との協力と分担
介護生活が長引く中で、家族それぞれの役割も自然と決まっていった。母は祖母の食事や身の回りの世話を担当し、父は家の修繕や重い荷物の運搬などを引き受けた。私は祖母の気晴らし役のような存在になり、一緒に散歩に出かけたり、昔の話を聞いたりする時間を大切にしていた。
特に助かったのは、地域包括支援センターやケアマネジャーの存在だ。彼らは祖母の症状に応じたアドバイスをくれるだけでなく、家族が抱える不安や悩みにも耳を傾けてくれた。ときには「無理しすぎないことも大切ですよ」と優しい言葉をかけられ、その度に肩の力が抜けたような気がした。
家族全員が協力し合うことで、介護が一人に負担としてのしかかることは避けられた。それでも、時には意見がぶつかることもあったが、そのたびに「祖母のために何がベストか」を話し合い、再び一丸となることができた。
祖母との新しいつながり
認知症が進行する中で、祖母とのコミュニケーションも変わっていった。それまでは祖母に教えてもらうことが多かった私だが、今では私が祖母に寄り添い、一緒に思い出を掘り起こす役目を担うようになった。
あるとき、祖母が唐突に「あの頃に戻りたいわ」と呟いたことがあった。「あの頃」とはいつのことなのかは分からなかったが、私は「どんな頃だった?」と聞き返してみた。すると祖母は、「あなたが赤ちゃんの頃よ。小さくて可愛かったのよ」と目を細めて言った。
その瞬間、私は涙がこぼれそうになった。祖母は自分の記憶が薄れつつあることを知っている。それでも、私たち家族とのつながりを心の奥底に抱えている。その気持ちを共有できたことは、何にも代えがたい大切な時間だった。
喜びと切なさの中で
認知症の介護は、喜びと切なさが常に混ざり合うものだ。祖母が笑顔を見せるたびに「この瞬間を大事にしよう」と思う一方で、これから先、さらに記憶が失われていくのではないかという不安もよぎる。
けれど、介護を通じて私は「今、この瞬間を大切にすること」の意味を深く理解した。未来の不安よりも、今日一緒に過ごす時間に集中する。それが、祖母との日々を乗り越えるための私たち家族の小さな哲学となった。